鷹の爪の垢を煎じて飲む ~sideR~

群馬県の片隅から書き綴る、軟らかめのブログです。「R」には鉄道の“R”ailway 、福岡Yahoo!Japanドームや西武ドーム、クリネックススタジアム宮城での“R”ight stand .....といった意味が込められてます。堅めのブログは「sideL」にて。

『ラーメンと愛国』

以前、ツイッター上でとあるフォロワーさんから「面白いので是非」と、2冊の本を紹介されました。
うち1冊はすぐに近所のブックオフで手に取る事ができたのですが、もう1冊の方はその時手に入らなかったのです。
ですが久方ぶりにブックオフに行きましたところ、丁度本棚にあったのを発見!
すぐに手に取ってレジでお会計したのが↓の本になります。

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

こちらの著書、全般を通してラーメンを巡っての戦後史として綴られておりますが、『ラーメンから現代史を読み解く』という帯の文章が示すように、中国大陸から日本に伝来されたラーメンは如何にして“国民食”として親しまれるようになったかの過程、そして時代の進展とともに、どのように日本独自の「ラーメン文化」を発展させていったのかが解りやすく書かれていて、とても興味深く拝読する事ができました。
特に第5章にあたる『ラーメンとナショナリズム』において、90年代以降の時代背景とラーメンとの関わりについて述べられており、読んでいて思わずなるほどなぁ、と唸ってしまった次第であります。

中国由来の「ラーメン」は如何にして“和”の装いを纏ったのか

「ラーメン」という食べ物自体が中国大陸由来である事に関しては、皆様もよくご存じのことと思います。
  
    ラーメン - Wikipedia

その説明に関しては上記↑に譲るといたしまして、著者である速水氏が“日本の地に定着したラーメンが、(90年代以降に)それまでの中華風の装いから和風の装いを纏っていった”と指摘している点については、実感として大いに頷けるところです。
本文中では、昨今の人気ラーメン店に見られる傾向として

○店主および店員が作務衣姿、もしくは黒か紺系のTシャツ姿
○「麺屋」等の漢字店名を用いる
○昔ながらの、雷紋の入ったいわゆる「ラーメン丼」ではなく、
 黒や紺色の器を用いている

といった事を挙げています。
作務衣と言えばつい「蕎麦屋さん」を連想しがちですが、ラーメン界隈での「名店」と呼ばれるところがそうしたスタイルを採用しだしてから、急速に普及していったのだろうと思われます。
もはや「蕎麦屋」と「ラーメン店」との境界が近づきつつある、のかも知れません。

外国由来の料理が日本でアレンジされて定着していった例はあまた数多くの例があるのですが、こと中華料理の代表選手と思われていたラーメンが、なぜこれ程までに“和風”へと変化したのか。
いや、長年の歴史によって“日本文化へ同化”していった、と言った方が正しいのか。

『由来』や『伝統』は問わない?

著書の中では、第5章において「(浅田彰氏の)表層的な模像としての日本への回帰」と「(大澤真幸氏の)文化的・趣味的共同体としてのナショナリズム」の2つのワードを用いて、この事象を読み解こうとしています。
旧来のスタイル(白のコック服姿、雷紋の入ったラーメン丼)から、和のスタイル(作務衣やTシャツ姿、和風の丼)への変化を“表層的な模像としての日本への回帰”の流れの中で起きた事とし、中華料理由来であるのに、その伝統から途切れて独自の発展を遂げても「問題視しない」とする“文化的・趣味的共同体としてのナショナリズム”。
著者はそれをもとに、現代の日本で起こっている事象をも読み解いています。話の展開が実に面白い。

つい最近、興味深い調査データを目にしました。

  ご飯のお供調査 1位明太子、2位納豆、3位梅干、最下位キムチ
  瞬刊!リサーチNEWS http://shunkan-news.com/archives/7177

調査対象が4項目しかないのは調査としてどうなの?というツッコミはさておき(笑)、ランキングでは1位の明太子(辛子明太子)が、4位のキムチに対して約5倍のポイント差を付けています。
この明太子人気、他の同じようなランキングでも同じ結果だったりします(フジテレビでかつて放映されていた「トリビアの泉」でのランキングでも、明太子が1位だったのは記憶に新しいところ)。
辛子明太子も実際は朝鮮半島由来の食べ物であり(→辛子めんたいこの話)、唐辛子調味液に漬け込むのと薬念に漬け込むのとの違いがあるとは言え、明太子もキムチも基本的製法に関しては同じです(かなり乱暴かもですが)。
しかしながら、なぜこうも日本国内において両者の間に差がついてしまったのか。
(日本人の味覚に合うような)明太子の生産に携わった日本人の努力の成果もありますが、その努力の成果として明太子自体が“和の装い”を纏う事に成功し、それが人気に繋がった・・・・・・と見る事もできます。
これは外来からの伝統であってもそれを問題視しない『文化的・趣味的共同体としてのナショナリズム』の一つの例と言えましょう。

グローバリズムでもナショナリズムでもない“第三の軸”

世界的なファストフードチェーンにおける展開戦術に代表されるような「食のグローバリズム化」と、それに対抗しうる形での「食のナショナリズム化」。
そうした流れの中で、国民食となり、和の装いを纏ったラーメンは“日本食文化(=食のナショナリズム)の砦”として人々から選択されたのでしょうか。
ただ、遺伝子組み換え食品の流入が危惧されている『食のグローバリズム化』は問題であるのですが(映画『モンサントの不自然な食べもの』公式サイトを参照)、『食のナショナリズム化』もまた、自国以外の食文化の否定や閉鎖的な食文化を招きかねないのでは?という危惧もあるように私は思います。
以前、シンガポールにおいてカレー料理の匂いにクレームが付けられたと聞き、すぐさまカレー料理を作るイベントを開いてそれに対抗した、というニュースを見聞きした事があります(ちょうど「反フジテレビデモ」と同時期でした)。
 ※ソース→シンガポールで6万人が「カレーの日」に賛同、多文化共生を訴え
反フジデモのあった時期でもあり、このニュースを知った時には思わず深い感銘を受けたのを、つい昨日のことのように記憶しております。

最近では日本においても、同じような動きが出現しています。
  急進美食連合 在特会総本舗 https://twitter.com/ztk2100
これは新大久保においてのデモ活動(先日遂に逮捕者も出ました)を受けて開設されたものと思われますが、“美味しいものを食べて、世界各国の人々と仲良くなる”というコンセプトは、先に取り上げたシンガポールでのカレー料理イベントと共通していると言えましょう。
こうした「多文化共生(共存)」を模索する動きは、グローバリズム化やナショナリズム化に対抗しうる“第三の軸”として機能するであろう、と見ています。

衆議院選挙の結果を受けて

去る16日に行われました第46回衆議院議員選挙でしたが、皆様ご承知の通り、自民党の圧勝劇に終わりました。
選挙の前からこうなる予測は出ておりましたので、順当といえば順当でしょう。
しかしながら民主党政権にNOを突きつけたとはいえ、これ程の結果になろうとは・・・・・・正直なところ、想像以上でありました。
“アンチ自民”を自認している私としましては、自身の心の中を落ち着かせるのに少々時間が掛かってしまった訳で。ハイ。

で、選挙翌日の記事。

小選挙区の宿命 自民得票4割、議席8割東京新聞

 第四十六回衆院選は十七日午前、開票作業が終了し、小選挙区(定数三〇〇)と比例代表(定数一八〇)の計四百八十議席が確定した。自民党小選挙区全体の得票率は43%程度だったにもかかわらず、獲得議席は二百三十七と全議席の79%を占めた。また、総務省小選挙区の確定投票率は59・32%だったと発表。衆院選の戦後最低記録で、前回二〇〇九年(69・28%)から約10ポイント下落した。
 衆院選投票率は現行の小選挙区比例代表並立制が導入された一九九六年の59・65%が戦後最低だったが、それを下回った。東日本大震災後、初めての大型国政選挙だったにもかかわらず、乱立した十二政党が原発政策などで主張の違いを明確に示せず民意の受け皿になりきれなかった。
 戦後の投票率は60%台後半から70%台後半で推移。九六年の現行制度導入後は三回続けて60%前後だった。二〇〇五年の郵政選挙と、民主党政権交代した〇九年は60%台後半に盛り返したが、再び低下に転じた。
 各党の獲得議席は、三年ぶりに連立政権を組むことになる自民党が二百九十四議席公明党が三十一議席。政権から転落する民主党は五十七議席で、九八年の結党以来、最低に落ち込んだ。
 自民党比例代表の獲得議席は惨敗に終わった〇九年の五十五議席から二議席増えただけにとどまった。民意を反映する比例代表での議席獲得が伸び悩んだことは、自民党有権者の積極的支持を得ていないことを物語っている。
 各党の比例代表の獲得議席は自民五十七のほか、日本維新の会四十、民主三十、公明党二十二、みんなの党十四、共産党八、日本未来の党七、社民党一、新党大地一。維新は獲得議席全体では第三党だが、比例代表では第二党となった。

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/shuin2012/all/CK2012121702100030.html

東京新聞の記事より引用したのですが、見出しとして付けた『小選挙区の宿命』というフレーズがなんともシュール。
どこか編集者の苦心がありありと伺えるような気がしてならないのです。

そしてこんな記事も。

衆院選:得票率と獲得議席に大きな乖離毎日新聞

 今回の衆院選小選挙区に出馬した自民党候補は、300選挙区の有効投票総数のうち43%の票を得たのに対し、獲得議席数は300議席の79%にあたる237議席と大勝した。一方、民主党は有効投票総数に占める総得票率が22.8%だったが、300議席の9%にすぎない27議席しか獲得できなかった。得票率と獲得議席に大きな乖離(かいり)が生じ、各選挙区で1人しか当選しない現行の小選挙区制の特徴が改めて浮き彫りになった。
 今回の衆院選小選挙区の有効投票総数は約5963万票だった。日本維新の会の得票率は11.6%で、300議席の4.7%の14議席を獲得。今回最多の299選挙区に候補を擁立した共産党は、得票率7.9%に対し獲得議席はゼロだった。
 小選挙区は比例復活を除けば1人しか当選しないため、落選候補に投じられた票の多くが民意を議席に反映しない「死票」になる。候補9人が乱立した東京1区は得票率29.3%の自民党候補が当選し、落選候補の得票割合は計7割に達した。
 09年衆院選をみると、民主党は得票率47.4%で7割を超える議席を獲得。自民党も「郵政解散」の05年衆院選で、得票率47.8%で同じく7割超の議席を得ており、選挙制度が選挙のたびに結果が大きく振れる一因となっている。【朴鐘珠

 http://mainichi.jp/select/news/20121217k0000e010344000c.html

現行の小選挙区制の弊害は随分と前から言われているのですが・・・・・・・今回もそれが如実に表れた、ということでしょうか。
1選挙区に対して、当選者は1名というのが現行の小選挙区制の基本。
落選候補に投じた票はどうしたって『死票』になってしまいます。
そして上記の記事にある“選挙制度が選挙のたびに結果が大きく振れる”、考えてみれば前回(2009年)の民主党大勝劇でもそうでしたし、前々回(2005年)のいわゆる「郵政選挙」でもそうでした。そして今回もまた再び。
選挙の度に大きく振れる。“民意”とはなんといたずらな存在なのか。

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婚活セミナー

先日(12月2日)のことですが、群馬県の東の端に位置する某町にて行われた『婚活必勝セミナー』に参加してきました。
町の青年商工会が企画、著名な講師を呼んでレクチャーするもので、昨年も実施されていたとのこと。
私自身も今まで婚活に取り組んできましたが、これまでの事を見直すいい機会だと思い、参加に至りました。

セミナーでこの時レジュメが用意されていたのですが、ざっと一読いたしましたところ、この手の話はネット上で検索すればいくらでも転がっている内容であり、新味など感じられないなぁ・・・・・と、正直思ってしまいました。最初のうちは。
ところが・・・・・いざセミナーが始まり、講師によって項目ごとに解説が入る。
そうして聞き入っているうちに、最初に自分が感じていた事は間違いだったことに気付く。
レジュメに記されていた内容は決して“陳腐”なものではなく“王道”そのものである事に。
そのぐらい、自分にとってはある意味“衝撃的”なセミナーであったように思います。

マッチング・セオリー

さてこのセミナーにおいて、印象に残ったのがいくつかあるのですが、その中でも

  「1対1の状況を作りやすくする」
  「男性側から積極的に話しかけるようにする」
  「マッチング・セオリー」

これらは特に私の印象に残りました。

例えば、婚活パーティで異性と出会ってカップルとなる場合、以下のような流れになります。

  出会い→1対1→カップル成立→デート(1回目)→デート(2回目)・・・・・・・

カップルが長続きするための秘訣は「前へ前へと進む」ことなのだとか。
これが長続きすれば、ゆくゆくは「所帯を持つ」ことへと発展するのですが、一連の流れでも途中でつまづいてしまうと、当然長続きなどしない訳で。
1対1の状況に持ち込んでカップルになったはいいけれど、すぐさま(メールなどで)連絡を取らなかったりするとやがて自然消滅へ・・・・・・
“長続きしない理由”はちゃんと存在していたのですね。

また、パーティで「1対1の状況を作り出す」ようにするためには「男性側から積極的に話しかける」ことが重要とも。
パーティの場においても、女性の側から積極的に話しかけるケースはあまりないのだそうです。
だから男性側が積極的に行かないとダメなのだとか。
それも「とびきりの美人」に向かうのではなく「自分に合いそうな人、近そうな人」に向かうのが良い、と。
一通り会話をしてみて、何らかの共通点を見いだせれば、それをきっかけにして会話が続くようになります(これを「三交関係」と呼ぶ)。
共通点を見いだせること、そして「共感力を上げる」こと、これらはパーティの場において訓練しないことには、それぞれの力が向上しないのだな、と感じました。

そしてマッチング・セオリー。
これは「カップルが交換しあう価値」のことで、以下の6つが挙げられます。

  1 外見、身体的魅力(外見での印象「人は見た目が9割」)
  2 物、お金(金銭感覚)
  3 サービス、愛情(愛情表現、家事の共同分担も含まれる)
  4 情報(出身地、居住地・趣味・特技等)
  5 相手からの自由度
  6 地位

この6つの価値を、カップルの間で共有すること。
これについては本当に大事なことで、強く共感できるなぁ、と思いました。
なるほど、これらのことがきちんと共有されていれば、当然カップルは長続きする。
一種のメカニズムでもあるんですね、これは。

婚活での“敗因”がわかる

さて、セミナーを通して「婚活におけるメカニズム」が分かると、おのずと自身における婚活での敗因が分かってしまうのが、何とも不思議であります。
今までの活動を振り返ってみて、敗因が分かってきただけでも、セミナーに参加した意義は十二分にあったような気がいたします。
実を言いますと、周囲から“積極的にどんどん異性に出会っていけ”と言われ続けていたのですが、正直な話、心の中では“そんな非効率な事を・・・・・・”と思っていた時期が、つい最近までありました。
しかしそう思う事は間違いだった、という事に改めて気付かされる。
ちなみに婚活で上手くいっている人は、月に4回は出会いの場を作っているのだとか。
それだけ「1対1の状況を作りやすく」しているのですね。

このセミナーで学んだ事を踏まえて、今度の日曜(12月9日)に婚活パーティへと臨むのですが、はてさてどうなることやら。
まずは、出来ることを確実にやっていきたいと思います。

今も生きる“反骨” 映画『ニッポンの嘘』

ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳の場面カット画像
先月ですが、福岡に行った折にKBCシネマにて、映画『ニッポンの嘘〜報道写真家 福島菊次郎90歳〜』を見てまいりました。

 ニッポンの嘘〜報道写真家 福島菊次郎90歳〜 公式サイト http://bitters.co.jp/nipponnouso/

今回はその時の感想について述べたいと思います。

作品解説(映画.comより引用)
戦後日本を見つめ続けてきた報道写真家・福島菊次郎の2009年から11年の3年間に密着したドキュメンタリー。
敗戦直後の広島で被爆者家族の苦悩を10年間にわたり撮り続けた福島は、それ以降も三里塚闘争、東大安田講堂、70年安保、あさま山荘事件水俣祝島など時代を象徴する数々の事件を25万枚以上の写真に収めてきた。
やがて保守化する日本社会やメディアと決別した福島は、無人島での自給自足生活を経て、愛犬との静かな暮らしを送っていた。
そして、胃がんの切除手術を受け自身の最期を自覚し始めた11年、東日本大震災が発生。再びカメラを手にした福島は、原発事故が起きた福島県へと向かう。

さて本題。
まずは目の前で次々と突きつけられる“真実”に圧倒されます。
それは正に『表に出ないものを引っぱり出して、たたきるける』が如く。
ヒロシマを出発点に安保、学生運動三里塚闘争、女性解放・・・・・そしてフクシマ
この人の歩んできた歴史は、戦後史そのものと言ってもいい。

広島の原爆被害者の姿を追った際の苦労話や“平和都市・広島”としてのありようにも打たれましたが、一番心を打たれたのは「三里塚闘争」に関してのところでした。
いまの成田国際空港のある場所、三里塚と呼ばれる一帯はかつて、農業の盛んな地域だったといいます。
雑木林だった場所を戦後に農地として開拓していったのですが、その後ご承知の通り新空港用地として国が強制収用、紆余曲折を経て1978年に空港が開港し、現在へと至るわけです。
ここで福島氏は闘争の模様を次々とカメラに収めるのですが、人々の表情どれ一つとっても鬼気迫る姿。そこで初めて写真そのものが“メッセージ性”を帯びてくるのです。そのメッセージ性に圧倒されました。
やがて闘争はシンボルである「放送塔」が倒壊することで終焉を迎えるのですが、その時放送塔のスピーカーから流れていたのが「ふるさと」の歌だったとか。
毎週行われている反原発デモの場においても「ふるさと」が歌われているのですが、40数年の時を超えての“偶然の一致”とは、いやはやなんとも。

※実はこの福岡行き、成田発着のLCCを利用して向かったのですが、成田空港を利用した事によるバチ当たりが後に降りかかるとはこの時つゆとも知らず(笑)
その時の顛末がこちら→sideLブログ「話題のLCCに乗ってみた」

そしてこの映画の主役である、福島菊次郎氏。
反骨精神を旨に、これまでにカメラレンズを通して戦後の日本そのものを批判して来た訳ですが、
「国を批判している人間が、国のお世話になる訳にはいかない」
との理由から、国民年金の支給を受けず、微々たる原稿料収入等で今も生活しているのだとか。

なんてFunkyな爺ちゃんなんだ!

私自身も常日頃「Funkyなジジイになるのが目標」などと心の中で思っていますが、この人には到底かないそうにない、とも思うのが正直なところです。
少しでも、この人の領域に近づけたらなぁ・・・・・・・・

そう言えばこの夏日本よ、これが映画だのキャッチコピーが世間を賑わせていましたが、私からは

「日本よ、これこそが映画だ。」

というセリフを、声を大にして訴えたいのです。

スポーツと戦争

本日(2012年8月15日)付の東京新聞中日新聞)1面コラム「筆洗(中日春秋)」にて、東京ドーム脇に設置されている石碑『鎮魂の碑』のことを取り上げています。

東京ドームの近くにたたずむ慰霊碑に、気付く人は少ない。刻まれているのは、沢村栄治、吉原正喜(東京巨人軍)、景浦将、西村幸生(大阪タイガース)ら、戦死した六十九人のプロ野球選手の名前だ▼名古屋軍の投手だった海軍少尉石丸進一の兄が、遺族代表として碑文を寄せている。二十勝を挙げた一九四三年暮れに応召。四五年五月十一日、海軍の鹿屋基地で特攻隊員として出撃命令を受けた▼<白球とグラブを手に戦友と投球 よし ストライク10本 そこで、ボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま南に敵艦を求めて飛び去った>。二十二歳という若さだった▼伝説の投手沢村は、最前線で手りゅう弾を連投し投手生命を絶たれた。三度目の赤紙を受け、乗っていた輸送船が東シナ海で撃沈され、帰ってこなかった。二十七歳だった▼初代「ミスタータイガース」の景浦は二度目の応召先のフィリピンで戦死した。二十九歳。将来の球界を背負うはずだった多くの選手が戦地で命を失った▼<野球がやれたことは幸福であった><死んでも悔いはない>。白球とともに届けられた石丸の遺書には、そう書かれていた。悔いはない、は本心とは思えない。打ち砕かれた無数の夢や未来の上に、今があることを忘れたくない。今日は、戦後六十七回目の八月十五日。
  http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2012081502000105.html東京新聞版)
  http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2012081502000097.html中日新聞版)

第2次世界大戦が終結して67年経ちますが、その間も戦禍が止む事はありませんでした。
スポーツの世界においても、軍事行為に翻弄されていた歴史があり、それは今も現在進行形であるように思います。

平和だからこそ、スポーツを思い切り楽しめる。
プレーヤーやアスリートの側も、そして観戦する側も。
この日、8月15日の新聞紙面に載ったコラムは、改めてその事について思い起こさせてくれます。

この地球上にある“無数の夢”を大事にしたい。
心からそう願ってやまない、8月15日という日。

脱・精神医療

暫くいじってなかったこちらのブログですが、久々の更新となります。
少しづつでも、やはり書ける時に書いておくのは大事かな、と。
でなければ、はてなに払ったお金が勿体無いですし(笑)

さて、過日ですが私のTwitterタイムラインに、以下のツイートが公式リツイートされておりました。

木下友和 @masa_toku

脱・精神医療CM[1](30秒)http://youtu.be/OUSS4gKRkLk?a 抗鬱剤を処方された後に自殺した人が世界に6万3000人いる。[2](50秒) http://youtu.be/-7cQQQQB_Sc?a 副作用に躁病、攻撃性の増大、敵対心、精神障害、殺人衝動などがある。学校銃撃犯8人が服用。
 https://twitter.com/masa_toku/status/220675636115668992
※[1]、[2]は原文では「まる1」、「まる2」

Youtubeが一緒にリンクされておりましたけれど、屈託のない笑顔を見せる少女が、後に首吊り自殺でこの世を去ってしまうとはにわかに信じがたい内容のCM(この場合は意見広告か)動画です。

実際、抗鬱剤をはじめとする薬物治療中心の精神医療には多くの問題点をはらんでいる、と以前から言われ続けています。
しかし現状、薬物治療中心が改まる気配がないのでは・・・・・・とも感じざるを得ないのが正直なところです。

医者が病気を作った?

「精神医療 問題点」でGoogle検索をかけてみますと、トップに「精神医療の問題点〜仮福真琴の精神科医は嘘だらけ」のサイトが登場します。
その中でも特にこの項目↓が目を引きました。

 よく作ったね。精神障害・・・
 http://karifuku.digit-01.com/psycbust/psyc_0801260028.html

一読いたしますと、本文中に

“一見してどういうものなのか分からないでしょう…彼ら自身でさえも…。そうなんです、「よく分かっていないのです…」”

とありますが、この一文こそが率直な気持ちを示していると言えましょうか。
そして最後の一行の

“そしてこれらが患者を「治癒」にもたらすことができるのは、わずか0.06%に過ぎません。”

に、唖然・・・・・・・・・・・・。
1%にも達していない。治療のつもりが治療になっていない。
さしずめ“出口のない海”とでも申しましょうか。

出口のない海”から抜け出すには・・・・・・・

先日、実妹の3回忌法要が執り行われました。
実を申し上げますと、妹は仕事面からくるストレスにより精神疾患を患い、数年の治療の末自ら命を絶ってしまったのです。
この時にどの位薬が処方されていたのか、当方はあまり把握していなかったので詳しくは知らなかったのですが、この事にもう少し関心を持っていれば精神治療以外の面からもアドバイスできたのかも知れないのに・・・・・と思うと、今でも悔やまれます。

精神医療の当事者であろうとなかろうと、今現在の精神医療の実態にもっと関心を持ち、薬頼みの現状からの改善を働きかけていくことが大事なのではないのだろうか、と私は思うのです。

(2012.7.26追記 CM動画を追加しました)

木村栄文 レトロスペクティブ

先日ですが、渋谷区円山町にあるオーディトリウム渋谷にて行われております「木村栄文 レトロスペクティブ」を見に行ってきました。

 木村栄文レトロスペクティブ 公式HP http://kimura-eibun.com/index.html

木村栄文氏(1935-2011)は福岡の出身。西南学院大学を経て1959年にRKB毎日放送へ入社。
数多くのドキュメンタリー番組を手がけた名ディレクターでもあります。

今回の催しでは12作品が公開されておりますが、このうち私が見たのは「鳳仙花 〜近く遥かな歌声〜」と「桜吹雪のホームラン 〜証言・天才打者大下弘〜」の2本。
ここではそのうちの1本「鳳仙花」について述べてみようかと。

作品紹介 ※http://kimura-eibun.com/lineup.htmlより引用

 鳳仙花 〜近く遥かな歌声〜
 Bongseonhwa│72分|1980年
 ●第35回芸術祭大賞
 構成:金平洙 撮影:木村光徳 編集:粟村皓司 音声:遠藤裕己 朗読:江藤茂利、中川豊子

 朝鮮動乱の最中、人々を支えたのはそうとは知らず響いた日本のメロディだった。
 それは終戦後「ポンチャック」に姿を変え、今なお歌い継がれている。
 美空ひばりや韓国国民的歌手、文化人らへの膨大なインタビューと歌唱で展開する日本と韓国・朝鮮の近現代関係史論。
 木村のときには酒を交えながらの体当たりの取材が冴え渡る。

冒頭で当時のソウルの街並みをそぞろ歩く、高木東六先生が登場します。
高木東六さんと言えば、かつてTBS系で日曜のお昼に放送されていた「家族そろって歌合戦」の審査員を勤められたお方。これだけでも実に懐かしい。
その後美空ひばりさんを始め数多くの歌手や作曲家、大学教授などがインタビューに登場します。
このうち、当時の韓国の国民的歌手とも言われた季美子さんがインタビューで
“韓国人がポップスを歌ったとしても、それはまだ欧米の模倣にすぎない”
といった趣旨のコメントを残しておりますが、それから30年後にK-POPが日本の音楽市場を席捲し、さらに世界へ広げようとするまで発展を遂げるとは、この時誰が予想したのでしょうか。

ドキュメンタリーでは数多くの証言で綴られておりますが、中でも当時日本で人気だった「古賀メロディー」が朝鮮半島内でも広く受け入れられた、という証言は驚きであり、私にとっても新発見でありました。
古賀政男さんの略歴を調べますと、7歳で故郷を離れ、旧制中学卒業まで朝鮮半島に移り住んでいたそうですが、この時の想いが彼の作曲する歌に込められ、やがてそれが当時の朝鮮の人々に受け入れられていった・・・・・と見る向きは自然かも知れません。
この頃の人々の苦しみは筆舌しがたいほどに想像を絶するものがあるのですが、それでも彼の地の人々の思いに寄り添おうとする人はいまして、例えば柳宗悦氏は「朝鮮を思う」の題で新聞に寄稿しているのですが、その中で柳氏は“日本人の本質”にまで踏み込んでいます。
この本質をよくよく読んでみると、現代の日本人が抱く本質と全く同じである事に驚かされる。
つまり先の大戦での敗北を経ても、日本人は全く変わっていない事を意味する訳でorz

このドキュメンタリーが制作されて32年が経つのですが、その間に日韓両国を巡る関係も様変わりしたように思えます。
音楽そのものも流行り廃りがあるのですが、戦前の歌謡曲に始まって演歌、ニューミュージック、そして今のポップス(J-POPそしてK-POP)隆盛へと繋がる一連の日韓両国音楽史に想いを馳せてみますと、思わず胸の熱さを覚えます。
一つの事象や文化に焦点を当てて考察する日韓関係史も、もっと盛んに研究されても良いのでは・・・・・・
映画館を後にした私はふと、こんな事を考えてみました。